■ ARITO's Audio Labを起業するにあたって

私は現在業務用音響機器メーカーに勤めています。入社以来、主に開発系の技術畑におり、PAアンプ等の商品開発(アナログ電子回路設計)に従事していました。 業務用のPAアンプでは停電時はバッテリーでの動作を要求されるのですが、出力電圧は100V系のハイインピーダンスですので、出力信号を昇圧するためのトランスが欠かせません。 私が回路設計をしていたころは、トランスの仕入れ先メーカーに欲しい仕様を渡して設計をしてもらっていました。そのため、社内には音響用トランスの設計技術は特に必要は無く、 実際に殆どありませんでした。しかし、ある時期に仕入れ先メーカーが産業用トランスの事業を縮小することになり、仕事を受けてもらえなくなったため、 社内に音響用トランスの技術が必要になりました。もともと管球アンプを作るのが趣味だった私は、面白そうだと思ってその仕事に立候補してやらせてもらうことになったのです。

産業用のトランスというのはコストが最優先ですので、必要最低限の特性が得られれば、あとはコストだけが問題になります。そういうトランスは巻線構造もシンプルなものに ならざるを得ず、設計技術的にはそれほど高いものは必要がありません。したがって、保有技術を高めるためには、 もっと性能的に高い要求のある管球アンプ用のトランスを題材とすることが絶好でした。これは自分の趣味とも重なるため、非常に高い興味を持って取り組むことができました。

子会社の工場でトランスの製造技術を習得してゆこうということになった時には、まず、ローインピーダンスのスピーカーをハイインピーダンスに変換するためのマッチングトランスの量産を 始めました。もともとトランスの生産を事業として捉えるのではなく、仕入れ先からトランスを仕入れられなくなった時に、音響用トランスを生産した経験の無いトランスメーカーであっても 生産ができるように指導ができるようになるためのリスクマネジメントとして、トランス生産の経験を積むことが目的だったため、赤字は覚悟の上でした。 しかし、赤字の生産を拡大してゆくわけにはいかず、生産する機種を広げていくことは難しい状況でした。生産技術の蓄積を進めるためには、赤字にならないような方法を考えなければなりませんでした。 趣味性の高い管球アンプ用のトランスであれば付加価値が高いため、生産するトランスが優秀でさえあれば値段が高く付けられるということに注目して、子会社工場からマニア向けにトランスを生産、 販売することを提案し、準備を進めました。 販促の一環として、知り合いのラジオ技術誌ライターの先生方に、販売予定のトランスの試作品を提供し、それらを使ったアンプの製作記事をいくつかお願いしましたので、 ご覧になった方もおられるかもしれません。しかし、会社の本業とは異なる系統の商品を生産、販売するというのは非常に社内の障壁が高く、 遅々として進まないうちに私に転勤命令が出たのを直接の原因として頓挫してしまいました。初回ロットの生産を終えて、販売可能な在庫を持った状態での頓挫に非常に残念な思いをしましたが、 マニア向けのトランスの製造・販売に取り組んだことは私にとって非常に良い経験になりました。この経験と挫折が無ければ、今回の副業の立ち上げに踏み切れなかったかもしれません。

トランスメーカーとしての私の強みは、トランスだけではなく電子回路についても経験、知識があるということではないかと思います。トランスメーカーはトランスの知識はあっても 電子回路の知識が乏しいところが多いように思います。そのため、顧客が求めるトランスがどういうものであるのか、何故そのようなトランスが求められるのかが正しく理解できていないように 思います。私は業務としてアンプの回路設計に携わってきましたし、趣味として管球アンプを作り続けていますので、顧客が求めるトランス像を理解しているつもりです。

但し、ちょっとネガティブな面があることは否定はできません。それはなまじ管球アンプの製作を趣味とするため、ひたすら自分の志向するアンプに適するトランスを目標に してきたことです。趣味の世界ですから色々な志向の方々が居られますので、例えば無帰還アンプが好きな人は、極論すれば私が注力するピーク・ディップの無い周波数特性は 必要ありません。私がこれに注力するのは負帰還を掛けることを前提にしているからです。安定した負帰還を掛けるためには極力ピーク・ディップの無い周波数特性を持つトランスが 好ましいのですが、実情としては、案外そのようなトランスは少ないようです。最近のスピーカーユニットは非常に広帯域で素晴らしい特性のものが多いですが、これらのスピーカーを 上手く鳴らすには低い出力インピーダンスのアンプで駆動することが望ましいと考えています。管球アンプは半導体アンプと比較して回路インピーダンスが基本的に高いので 不利ですが、それを改善する有効な手段が負帰還であることは言うまでもありません。負帰還を安定して掛けることができる出力トランス、これが私の目標です。 (誤解の無い様書き添えますが、負帰還を掛けたアンプの安定度はトランスの特性だけで決まるものではなく、アンプ回路全体の設計に依存します。その中でトランスの特性の 占める割合が大きいという意味です。トランスの特性がいくら良くても、負帰還を掛けることに適していない設計のアンプ回路の場合は高い安定度は望めません。)




定年までの間、副業としてやっていく間は、以下のポイントについて評価することを目的とし、定年後に本格的に参戦するかどうかを決めたいと考えています。

●トランス巻線技術の維持、向上

会社の仕事として、10年余り音響用トランスの技術の獲得および社内蓄積を行ってきましたが、2018年4月より転勤を命ぜられ、トランスの仕事に区切りをつけることになりました。 トランスから離れて半年、1年が経ち、手作業でトランスを捲くという技術は、捲くことを止めてしまうとどんどん失われてゆく、ということを痛感しました。そして、このままでは 定年を迎えるころには腕がすっかり鈍ってしまって良いトランスを捲くことができなくなるのではないか、という不安を持ちました。副業としてですから従事できる時間は 限られていますが、できるだけ継続的にトランスを捲くことによって技術を維持、向上させたいと思っています。

●自らの単純作業への適性

会社でのトランスの仕事は、設計、試作、評価が主で、量産は基本的に仕入れ先メーカー頼り、工場内の作業者頼りでした。時折、引き合いをいただいて対応した少量の特注品は 自らが生産しましたが、継続する量産品は経験がありません。基本的にトランスの生産というのは単純作業の連続ですから、自分にその適性があるのか、無いのかを評価しなければ なりません。(実はこのポイントに一番不安を感じています。)

●ガレージメーカーとしての市場性

管球アンプ用トランスは主な購買層の年齢が非常に高いため、失礼ながらどう考えてもバラ色の将来はありません。需要も下がっているようで廃業するメーカーが出てきており、今後も増えるんじゃないかと思います。 そんな中で全くの新人が参入できる余地があるのかどうか、本格参戦までに評価しなければなりません。もちろん需要だけの問題ではなく、私の技量で顧客の要求を満足させることが できるトランスを作ることができるかどうか、ということも評価が必要です。

●ARITO's Audio Labの認知(浸透)度

仮に私の技術が顧客を満足させることができたとしても、私の作るトランスが市場で認知されなければ当然誰も買ってくれません。オーディオの世界はやはりブランドの確立が 必要不可欠だと考えています。どうしたら自分のブランドを顧客に認知してもらえるのか、それを考えながら進めてゆきたいと思います。


さて、トランスの材料というものは、ある程度以上のボリュームでの購買でないと割高な値段となり、商売を成り立たせることが難しくなります。そのため、副業の立ち上げに際しては 材料を絞り、機種を絞ってスタートすることにしました。具体的には、EI-57というごく標準的なコアを使った小型トランスを、シングルアンプ用2機種(定格出力4W)と プッシュプルアンプ用2機種(同7W)に絞り、まずは4機種合計で200個分の材料を用意することにしました。この200個のトランスの生産、販売を通じて、上記4つのポイントを評価してゆきます。 上手く滑り出せるようでしたら商品ラインアップの充実を検討できるかもしれませんが、少なくとも最初はそんな余裕は無いだろうと思います。例えば、子会社工場で販売しようとしていた ひと回り大きい4機種をラインアップに加えることや、バイファイラー捲きのトランス、スピーカーネットワーク用コイルやアッテネータートランス、ライン用アッテネータトランス、など、いろいろと商品のアイディアはあるのですが、それは最初の200個の結果を踏まえて検討する、ということになると思います。




自分の作ったトランスが市場で幾らくらいの価値があるのか、ということに関しては正直言ってさっぱり分かりません。安すぎると事業として継続することができませんし、 高すぎても売れないでしょう。というわけで、市場性探索の意味で、ヤフオク(または同等のネットオークション)での販売を考えました。特に最初は、できるだけ安価にスタート、 例えば200個分のトランスの材料費や、ガレージメーカー立上げに掛かった設備投資、工具その他もろもろの費用を合計した金額を販売予定台数(200個-製品モニター用支給台数) で割った額等からスタートして、あとは成り行きに任せたいと考えています。どういう終値になるのか分かりませんが、結果を分析すれば私の技術(トランス) に対する市場での評価が見えてくるかもしれません。スタート価格はいろいろと試して、探ってみたいと思います。




いずれはこれまでの仕事上で培ったオーディオ用トランスの技術を生かした仕事で起業したいとは考えていました。会社を定年になってから始めるつもりでいたのですが、 幾つかの理由によりフルタイムの会社勤めをしているうちに副業としてスタートすることになりました。昨年、話題になった金融庁報告の2000万円問題ではありませんが、定年後、 なにも仕事をしないと貯蓄を切り崩してゆく生活となるのは確実ですので、年金を補う何らかの仕事を見つけなくてはなりません。 年金だけでは生活するのに不足するといわれる5.5万円(私はそんなものでは足りないと思ってます)をこの仕事で何とかできたらという思いです。

私が捲いた200個のトランスがどのように市場に受け入れられてゆくのか、楽しみでもあり、不安でもあります。それ以前に量産作業が自分に向いていないかもしれません。 もしそうなら、定年後の本格参入は有り得ないことになります。いろいろと不安は尽きないのですが、定年になる前に評価できるチャンスができたというのは有難いな、と思います。 副業を許可してくれた会社に感謝ですね。